第10話「課題曲」
お昼を食べた後は、あきちゃんの部屋でギターの講習会が始まった。
まずはちえさんが、僕たちが持っていったスコアの曲を披露してくれるという。人生初の「目の前で聴くエレキギターの生演奏」に、期待が膨らむ。
「この棚にあるスコアの曲は、だいたい全部弾けるよ」
ちえさんはそう言って、僕たちが選んだあの人気バンドの代表曲のスコアを手に取った。
アンプにギターを繋ぎ、CDをかけて、その曲に合わせて演奏が始まった。
ジャーン!
アンプから飛び出す、生々しいギターの生音。
さっきまでスピーカーから「流れていた」ギターと違う。ここにいる「誰か」が、今この瞬間に鳴らしている音だ。弦を押さえる左手の指が素早くフレットを移動し、右手のピックが正確なリズムで弦を弾く。
めちゃくちゃカッコいい。
全身に、ちえさんのギターが響き渡る。CDで何度も聴いたフレーズなのに、完全に別物に感じた。これが、本物の「ギタリスト」が出す音なんだ。
曲が終わると、僕は無意識のうちに拍手をしていた。
「これくらいの曲は、すぐに弾けるようになるから——まずはこの曲を課題にしようか」
ちえさんはケロッと言う。僕はこの曲が大好きだ。課題曲としては最高だと思った。
「課題曲を一曲決めて、そこに向かって練習したほうが、モチベーションが保ちやすいからね」
目標があったほうが、走る距離もスピードも分かる。そういうことらしい。
この後、TAB譜の読み方やギターの基本テクニックを教えてもらった。
「ここはパワーコードね。ロックの基本。まずはこれをしっかり押さえられるように」
「ダウンピッキングだけじゃなくて、オルタネイトも練習しようね」
「コードを鳴らすとき、全部の弦を鳴らさなくていいから。鳴らす弦とミュートする弦を意識して」
エレクトーンを幼稚園の時からやってきた僕は、要領を掴むのが早かった。指先の独立もある程度できているので、左手の押さえにもすぐ慣れ始めた。
「なおちゃん、センスあるよ。飲み込み早い」
ちえさんにそう褒められて、胸が熱くなる。
ちえさんは、バンドの楽しさもたくさん話してくれた。みんなで一つの曲を作り上げる達成感。ライブでしか味わえない高揚感。バンド活動で学べることは、本当に多いこと。
ちえさんの話を聞けば聞くほど、バンドをやりたい気持ちはどんどん膨らんでいった。
一通りの基礎を教わった後、ちえさんの表情が少しだけ真剣になる。
「ちょっとだけ、大切なことを伝えるね」
ギターを一度膝から下ろし、僕の方に身体を向ける。
「ギターは、とにかく練習が必要なんだ。練習する時間、実際に演奏している時間を、どれだけ多く取れるかで、上手くなるスピードが全然違う」
それは、才能とかセンスとかよりもずっと現実的な話だった。
「技術だけじゃなくてね、指の皮も”ギタリストの指”になっていくんだよ」
ちえさんは、自分の左手を僕に差し出した。
「ほら、触ってみな」
そっと指先に触れてみる。固い。ぷにぷにしていない。指先の腹が、分厚く硬くなっている。
「ぷにぷにのなおちゃんの指で演奏を続けてたら、最初のうちはすぐに切れて血が出てきちゃう。ギタリストの指先はね、その痛みを乗り越えて、少しずつこうやって育っていくの」
そこで、ちえさんは表情を少しだけ曇らせた。
「でも、なおちゃんはギターを持っていない。このギターはね、あたしの大切な宝物だから、簡単にプレゼントってわけにはいかないんだ」
確かにその通りだ。僕にはギターがないので、ここに来たときしか練習ができない。
ちえさんは、少しだけ間を置いてから続けた。
「……だから、提案。なおちゃんが本当にやる気があるのなら、習い事をするような感覚で、毎週日曜日にウチに練習しに来る気はないかな? 夏休みの間は、いつ来てもいい。ただ、学校が始まったら平日はダメ。日曜日だけね」
それは、僕にとっては願ってもない話だった。
「私がちゃんとギター教えてあげられるし、月謝もいらないよ。大好きなあきにも会えるから、一石二鳥でしょ?」
最後にサラッと地雷を踏み抜いてくる。顔が熱くなる。でも、嬉しかった。
夏休みの間はいつでも来ていいと言ってくれたので、僕は可能な限り毎日通いたいと思った。夏休みの間に、課題曲をマスターしたかったのだ。
その日の帰り、僕は父親にこのことを相談した。
夏休みの間、できる限りあきちゃんの家に通いたいこと。そして、夏休み中に課題曲をマスターしたいこと。
父親は黙って話を聞いていたが、最後にひと言だけ言った。
「分かった。そこまで言うなら、本気でやるってことだな」
そして——あきちゃんの住む町の駅までの1ヶ月分の定期券を買ってくれた。さらに、夏休み中に課題曲をちゃんとマスターできたら、「安いギターを一本買ってやる」と約束してくれた。
僕のやる気は、最大級になった。
1992年の夏。僕は、可能な限り毎日あきちゃんの家に通った。ちえさんにギターを教わりながら、課題曲の練習に全力で集中した。
あきちゃんとは、ほぼ毎日会えるようになり、どんどん親密になっていく。ちえさんやなっちゃんのイジりにも慣れてきて、軽くいなせるようになった。
ちえさんは、自分が諦めたバンドの道をあきちゃんに託したい気持ちで、ずっと大切なギターをあきちゃんの部屋に置いていたという。そこに、あきちゃんとバンドを始めたいと言う僕が現れた。
そんな僕がギターを覚え、上達していくことは——ちえさんの夢を叶えることにも繋がる。
課題となる曲をマスターするために、毎日ひたすらその曲ばかりを繰り返し聴いた。TAB譜もコピーしてもらい、常に眺めながらイメージトレーニングをする。可能な限りあきちゃんの家に通い、一生懸命練習を繰り返した。
通常ではあり得ないくらいの集中力とモチベーションで、練習量はどんどん増えていく。指の皮が何度も剥けては硬くなり、みるみるうちに曲が形になっていった。
8月中に弾けるようになりたかった課題曲は、8月の中旬には、すでに一通り通して弾けるようになっていた。
「なおちゃん、ほんとにすごいよ。ここまでやるとは思わなかった」
ちえさんからは、そんな絶賛の声をもらった。
次の日曜日に、僕の父親にその成果を披露することになり、僕の家の最寄り駅付近にある小さなスタジオの予約を入れた。
スタジオに父親を招待して、ちえさんのギターをアンプに繋ぎ、課題曲を演奏する。始めてまだ半月くらいの初心者の演奏だが、基礎はしっかり出来ているし、ひたすら反復して練習し続けた曲なので、通しで最後まで弾くことができた。
「……すごいな。本当にちゃんと弾けてるじゃないか」
父親にそう言われた瞬間、張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。
その場で、父親は約束通り「ギターを買う」と宣言してくれた。
みんなでそのまま、楽器屋さんに向かった。
店内に入ると、壁一面にギターが並んでいる。色も形も、一本一本全部違う。
「予算は2万円くらいかな」と父親が言い、ちえさんがその範囲で「無難で、長く使える」ギターを選んでくれた。
その中で、僕の目を一瞬で惹きつけたギターがあった。真っ黒なボディに、白いピックガード。少しだけ傷がついている中古のギター。でも、その傷さえも「かっこよさ」に見えた。
値札には、「¥84,000」の数字。
「これは……さすがに初心者の練習用には無理だね。いつか、このくらいのギターが似合うようになったら、改めて考えようか」
ちえさんは、そう言って笑った。
僕はうなずいた。
——いつか、このギターが似合うギタリストになろう。
そう心に決めて、2万円の新品の入門用ギターと替えの弦を買った。
アンプまでは予算が足りず、ひとまずギター本体と弦だけを手に入れることになった。それでも、自分のギターがあるという事実だけで、胸がいっぱいだった。

父親は役目を終えた安心感と共に先に帰宅し、まだ午前中だったので、僕はそのままあきちゃんの家へ向かった。
こうして——1992年の夏。
僕は、自分のギターを手に入れて、ギタリストとしての道を歩き始めた。
この夏の選択が、僕たちの人生を大きく変えていくことになる——そんなことは、まだ知らないまま。
── 第11話へ続く ──

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