第1話「ボーカルのいないステージ」
ボーカルのいないライブなんて、聞いたこともなかった。そんなライブが存在していいのかさえ分からなかった。それでも僕たちは、このステージに立つことを決めた。
1998年10月3日、正午。開場のアナウンスが流れると同時に、ライブハウスの外で待っていた人々が一斉に流れ込んでくる。開演は午後1時。その1時間の間に、会場は次々と埋まっていった。
急遽決まったライブだった。前売りチケットもない。準備する時間もなかった。それなのに、開演時刻には1000人を超える観客がこの場所を埋め尽くしていた。
関係者たちが配ってくれた手書きのフライヤーだけ。それだけで、これだけの人が集まってくれた。口コミで広がり、SNSなんてない時代だからこそ、人と人の熱量だけで伝わった情報。「どうしても来たかった」という人たちで会場はパンパンになっていた。
このライブの開催を決めたのは8月16日。あれから、まだ2ヶ月も経っていない。気持ちの整理なんてついていなかった。それでも、僕たちはここに立つことを選んだ。
午後1時。定刻通り、僕はステージに上がった。
ステージの中央、一番目立つ場所に置かれたマイクスタンド。そこに立つはずだった人は、今日はここにいない。

「今日は、お忙しい中お集まりいただき、本当にありがとうございます」
マイクを握る手が震えている。喉の奥が熱い。それでも、声を出さなければならない。
客席を見渡す。見覚えのある顔がいくつもある。初めてのライブから応援してくれていた人たち。みんな、今日は泣いていた。
「ボーカルのいないライブなんて、聞いたこともありませんでした。正直、こんなライブを開催していいのか、ずっと悩んでいました」
もう我慢できなかった。視界が滲む。でも、まだ話さなければならないことがある。
「でも、今、皆さんの顔を見て思います。このライブを開催してよかったと」
息を吸う。次の言葉を言ってしまったら、もう後戻りはできない。
「僕たちのバンドが築いてきたすべてを、ここに置いていきます。今日をもって、このバンドは解散します」
「今まで、本当にありがとうございました。この感謝の気持ちは、一生忘れません」
メンバーたちを振り返る。サブギターのノブは、いつものニヤニヤ笑いもなく、俯いてギターを抱きしめている。ベースのシュウは、静かに天井を見上げて、何かを堪えている。ドラムのゆいちゃんは、顔をくしゃくしゃにして泣いている。みんな、限界だった。それでも、ここに立っている。

「今日は、ご来場いただいた皆さんがボーカルです。皆さんの声で、僕たちが築いてきたすべてを、届けてほしい場所に届けてください。お願いします」
誰に届けたいのか──その相手の名前だけは、口に出さない。
最初の音を鳴らす。いつもなら、ここで彼女の声が響くはずだった。でも今日は、1000人を超える観客の声が、その空白を埋めていく。
涙で前が見えない。それでも指は動く。何百回、何千回と演奏してきた曲だから。彼女と一緒に作り上げてきた曲だから。
僕は演奏しながら、思い出していた。すべての始まりを。彼女と出会った日のことを。二人で夢を語った日々のことを。そして、あんなにも輝いていた、あの笑顔のことを。
──あの日。
最悪な出会い方をした、あのCDショップの視聴コーナーを。
僕は、最後のステージでギターを弾きながら、すべての始まりを思い出していた。
── 第2話へ続く ──

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