第5話「塾の初日と、運命の約束」
4月に入る少し前、塾から連絡があった。入塾試験の結果だ。
僕は3教科すべて、100点満点で合格していた。
問題はとにかく簡単だった。「あれで100点じゃない方がどうかしてる」などと少しだけ両親に向けて調子に乗ってみたが、特に特別なお祝いなどをしてくれるわけでもないのですぐに自重した。
とにかく、晴れて塾に行けるのだ。CD購入資金のための「1000円の契約」が、ついに始動する。
説明会に呼ばれ、分厚い教科書を受け取った。塾は毎週月・水・金の3回。成績が悪いと土曜日に補習授業がある。時間は18時から21時までの3時間。45分授業、15分休憩、45分授業、30分の食事休憩、最後に45分授業という流れだ。
土曜日の補習は14時から16時らしいが、僕は後にも先にも補習になったことがないので、どんなことをするのかはよく分からない。
説明会の2日後、初授業の日がやってきた。
僕はこの初授業が始まる前から、「あきちゃん」をどうやって探すかずっと考えていた。一つ上の学年の教室に乱入するほど根性は据わっていない。でも話したいし、どうにかして見つけたいと思っている。
そんなことを悶々と考えながら、1時間目、2時間目と授業を受けた。どちらも予想通り簡単で、時間を持て余してしまう。
2時間目の授業が終わり、食事休憩が始まった直後。
そんなピュアな少年の心配なんて知ったことかと言わんばかりに、彼女は僕の教室に現れた。
「なおくーん! なんで探しに来ないんだよ!!」
ガララッ!
ドアを勢いよく開けて、平気で4年生の教室に入ってくる。そして大声で名指しされる。
こちとら塾に初登校の日だ。まだ4年生のメンバーですらほとんどが初対面で話したこともない。教室中の視線が一斉に僕に突き刺さる。めちゃくちゃ注目を浴びて、みんながこっちを見ている。とてつもなく恥ずかしい。
僕は慌てて席を立ち、そそくさとあきちゃんを廊下に連れ出した。
「な、なんで教室に来るんですか……」
小声で抗議してみたものの、あきちゃんはキョトンとしながら首をかしげた。
「えっ? なんで? 来たらダメなの? なんで??」
悪意ゼロ。純粋な疑問。僕はこの塾のルールや常識をまだよく知らない。違う学年の教室に行くことも、普通のことなのだろうか?
「いや……注目されて恥ずかしかったから……つい。ごめんなさい」
あまりの勢いに圧倒されて、なぜか僕が謝ってしまった。
その瞬間だった。
あきちゃんの口角が、くいっと上がった。
ニヤリ。
自信に満ち溢れた、勝利を確信したような笑顔。まるで「やっぱりね、キミはそう言うと思ったよ」と言わんばかりの表情。勝利までの道筋をすべて把握していて、その通りに進んでいると確信している顔。
この笑顔は、正直めちゃくちゃずるい。可愛くて、逆らえなくなってしまうのだ。

「分かればよろしい。なおくんが来ないから、おねーさんがわざわざ会いに来てあげたんだよ。合格してるかどうか知らないし、いなかったらどうしようって不安だったよ。笑」
めちゃくちゃ嬉しかったけど、悔しかった。完全に手のひらで転がされている。
「塾が終わった後、合格のお祝いにまたジュース奢ってあげる。自販機のベンチで乾杯して、CD聴こうよ」
そう言い残して、あきちゃんは嵐のように去っていった。
最後の授業は、正直全く頭に入ってこなかった。待ち遠しくて、ワクワクしながら時間が過ぎるのを待った。
授業終了のチャイムが鳴ると同時に、僕はカバンに教材を突っ込み、教室を飛び出した。また音楽の話をいろいろしながら盛り上がれるのだ。
学校の友達とは、ここまで好きな話で盛り上がることはできない。初めてここまで趣味を全力で話せる人に出会った。その高揚感で、足取りが軽い。
エレベーターを2階で降りて、自販機のベンチに向かう。あきちゃんはまだ来ていなかったので、僕はベンチに座りながら待つことにした。
10分くらい遅れて、彼女は到着した。先生に呼ばれていたらしい。
「お待たせー」
あのニヤリとする笑顔で、手を振りながら近寄ってくる。きっと僕がこの笑顔に弱いことを見抜いているのだ。僕は何も言えずに、笑顔で手を振り返した。
あきちゃんは至近距離まで近づくと、僕の頭を撫でながら言った。
「よしよし。先に来てお利口に待てたんだね。良い子良い子」
完全に僕のことを子供扱いしている。もちろん、あの笑顔で僕の目を見ながらだ。悔しいのに、僕もつい笑顔になってしまう。
「一つしか歳の差ないし、そこまで子供じゃないよ……」
反論はしてみたけど、全く無視!! よしよし攻撃は止まらなかった。
主導権を完全に奪われはしたが、約束のジュースを買ってもらうことは忘れていない。
あきちゃんが自販機にお金を入れてくれた。
「今日もオレンジ? 笑」
あからさまな子供扱いである。
「今日はコーヒーでも飲んじゃおうかな〜?」
少し強がってみたけど、意味は全くなかった。
「はいはい、ムリしないの」
ちあきちゃんは迷わずオレンジジュースのボタンを押し、プシュッと出てきた缶を僕に押し付けてきた。
「カッコつけなくていいんだからね、なおくん」
見抜かれている。僕は少し恥ずかしくなりながら、大人しくオレンジジュースを受け取った。
(決めつけてくるなら、わざわざ聞かないでほしいんだけど……)
なんて、口に出せるはずもない。
「進学コース合格、おめでとー」
缶と缶を軽くぶつけて、ジュースで乾杯する。お金のない小学生の感覚からすれば、ジュース1本のお祝いでも、十分すぎるほど嬉しかった。
その後、試験の時と同じように、あきちゃんはイヤホンの片方を僕に渡してきた。
「ほら、なおくんこっち」
二人で片耳ずつイヤホンをつけて、ジュースを飲みながら大好きな音楽を聴く。
「このギターソロのチョーキング、粘り気が最高だよね」
「分かる! ブルースの影響受けてるよね」
「そうそう、それ! ちゃんと聴いてるじゃん」
ギターのリフの話。ドラムのフィルインの話。歌詞の意味の解釈。他にどんなバンドを聴いているか。
お互い、音楽に対する想いをこんなに語れる相手が、同年代にはいなかったみたいだ。話は尽きず、時間の感覚がどんどん薄れていく。
腕時計代わりにしている安物のデジタル時計が、「ピピッ」と一時間ごとに鳴る音で、ようやく現実に引き戻された。
「やばっ……もう10時だ。怒られる……」
塾は21時まで授業があるとはいえ、そのあと1時間も帰ってこなければ、さすがに両親も心配するだろう。僕の家は自転車で5分の距離だ。それなのに、初日から10時帰りはちょっとアウトかもしれない。
「ちょっと家に電話してくるね」
近くの公衆電話まで走り、テレホンカードを差し込んで自宅に電話をかける。言い訳はせずに、正直に話した。
塾で年上の友達ができて、いろいろと塾のことを教えてもらっていたこと。同じ趣味の話で盛り上がって、時間を忘れてしまったこと。
僕の親は、思っていたよりもずっと嬉しそうな声を出した。
「そうか、よかったな。ちゃんと気をつけて帰ってきなさいよ」
同年代の友達とあまり遊ばない子だったからか、「年上の友達ができた」ということに安心したらしい。
怒られなかった安堵と同時に、そろそろ帰らなければいけないという現実がやってきた。それを、あきちゃんに伝える。
帰り際、あきちゃんが新しい提案をしてきた。
「塾終わってからだと遅くなって親に怒られるんでしょ? だったらさ——」
彼女は、またあのニヤッとした笑みを浮かべた。何かをもう決めていて、その通りに進めばいいだけ、という顔。
「塾が始まる前に、1時間早く来ればいいじゃん。毎回ここでお話ししようよ」
塾は18時から。17時に来て、ここで1時間一緒に過ごすという提案だ。
学校が終わって家に帰るのは、大体16時前くらい。時間的にも余裕があるし、何より——
毎週3回も、こうして楽しく話ができる。
そう考えた瞬間、嬉しさが胸の中で爆発しそうになった。
「……うん。行く。毎回、17時に来るよ」
僕は喜んでその提案を受け入れた。
あとから聞いた話だが、あきちゃんも同年代の子とこうやって楽しく話せることはほとんどなかったらしい。お互い、少し変わった小学生で、同級生とはあまり趣味が合わなかったのだ。
「じゃあ、気をつけて帰るんだよ。また明後日ね♪」
あきちゃんのその一言で、「明後日も会える」という事実が、急にリアルになった。
「うんっ。また明後日。……ありがとう」
最後に言えた「ありがとう」は、僕にとって精一杯の表現だった。本当は、叫びたいくらい嬉しかったのに。
自転車に乗って家路につく。夜風が冷たくて、でも心は温かい。
ペダルを漕ぎながら、僕は思った。
明後日が待ち遠しい。水曜日が待ち遠しい。金曜日が待ち遠しい。
週3回、あきちゃんと話せる。音楽の話ができる。
これが、僕にとっての「1000円の契約」が生み出した、最高のボーナスだった。
── 第6話へ続く ──

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